
安永4年(1775)青本「金々先生栄華夢」(恋川春町画作)が、当時の風俗や世相を描写し、洒落や滑稽を交え、洒落本の要素を取り入れながら成人向きの文学として成功した。式亭三馬を「青本。草双紙は大人の見るものと極まる」と言わしめ、この作品より後のこの種の作を、従来の青本と区別するため黄表紙と呼ぶようになった。
←恋川春町「金々先生栄華夢」の3、4ページ目。居眠りをする金兵衛が夢を見る様子が、吹き出しを用いて表現されている。
青本の表紙は、草の汁で染めた明るい緑色が好まれたが、すぐに黄色く変色したため、青本は黄色の表紙をつけていたことになる。縦18センチ、横13センチ程度の大きさで、5丁1冊(5枚の内容を袋とじして、表紙と裏表紙をつける)で、2〜2冊組のものが多い。毎ページの絵(絵組み)とその余白の文(地の文、絵の説明やせりふなどを書き入れと言う)が互角に内容を構成する。

朋誠堂喜三二、芝全交、市場通笑、伊庭可笑、絵師でもある山東京伝ら、作者陣の参加、折しも浮世絵の黄金時代を迎え、鳥居清長、喜多川歌麿、北尾政美、葛飾北斎らの活躍、黄表紙界は安永中期から天明末の全盛期を迎える。
田沼政権下の開放的、享楽的な雰囲気の中、通、うがち、洒落、パロディなど、雅を廃し、遊びに徹しようとする戯作気分は、封建社会の秩序に厳しい江戸の地において、自由で新鮮な生き方をしようとする武士階級と、風俗や流行に敏感な町人階級に身分や階級を越えたつながりをもたらした。そしてその気分は、広く一般的に広まり、「当世風」ともてはやされた黄表紙、、狂歌、洒落本、川柳などの形を取りながら、ムーブメントの様相を呈する。
殖産興業、商業振興を政策とした田沼意次は、天明の大飢饉、政治腐敗などから失脚し、松平定信が文武奨励の儒教倫理的な寛政の改革を始める。政権の交代は、うがちの対象となり、喜三二は「文武二道万石通」により、止筆を命ぜられ、文筆を廃した。寛政元年(1789)春町、「鸚鵡返文武二道」により、召喚され、「黒白水鏡」石部琴好作京伝画は、琴好手錠の上、江戸払い、京傳は過料に処せられる。しかし、黄表紙が特に新政を風刺する意図を持ったのではなく、諧謔とうがちが、時事問題を取り上げたのに過ぎない。京伝はさらに寛政3年(1791)洒落本「仕懸文庫」、「娼妓絹篩」、「錦之裏」により、手錠50日 絶版処分を受け、版元の蔦屋重三郎は身上半減の刑に処せられる。洒落本は出板を禁止されるが、その令自体は竜頭蛇尾に終わる。黄表紙界は体制に順応して変貌し、洒脱な機知、洒落、滑稽は影をひそめ、教訓性を全面に押しだすようになる。
寛政7年(1795)南仙笑楚満人「敵討義女英」が人気を博してから、敵討ちものが流行し、筋が複雑になり、冊数も多くなり、何冊かを合冊するようになる。文化4年(1707)以降のものは合巻と呼ばれ、黄表紙と区別される。
黄表紙は、江戸の地本であり、上方にそっぽを向いた、江戸根生いの誇り、昂揚された江戸ものの意識を、現代の私たちにも、ビジュアルに伝えている。また、化政文化に一括して説明されてきた18世紀後半の文人文化が、独自の文化状況を呈していることは昨今の研究でも明らかになっている。
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