宝暦11年(1761年)8月15日、江戸深川木場町の質屋伊勢屋に生まれる。本名、岩瀬醒、幼名甚太郎。父岩瀬伝左衛門信明は伊勢出身、9歳で深川の質屋伊勢屋に奉公する。尾州御守殿に仕えていた大森氏をめとり、伊勢屋の養子となった。伊勢屋は大森氏であり、母大森氏は伊勢屋の長女であったらしいが、詳細は不明である。安永2年(1773)、伝左衛門は銀座1丁目の町役人の株を買い、転居する。13歳の甚太郎は京屋伝蔵、紅葉山の東の意で山東と名乗る。長唄、三味線など習い、15歳頃から浮世絵師北尾重政に入門、北尾政信の画名を得る。
18歳の時、黄表紙「開帳利益札遊合」(者張堂少通変人作)で画工としてのデビューを果たし、黄表紙や芝居絵本に描き、20歳で「娘敵討古郷錦」「米饅頭始」で、画とともに文も書き、戯作者として山東京伝を名乗る。このころより遊里に通い、郭の中の美や人間関係の有様、感情の揺らぎや生命のたくましさなどを観察する。京伝作品の基調となる人間味豊かな「通」の意識が培われる。
天明2年(1782)22歳、黄表紙評判記「岡目八目」(四方山人大田南畝)で、京伝画作の「御存商売物」がこの年の巻軸大上上吉(最優秀)と評される。天明狂歌が大流行した頃で、京伝も身軽織輔(「身はかろく 持つこそよけれ 軽業の 綱の上なる 人の世わたり」)の号で狂歌界に参加し、狂歌絵本に絵を描く。
天明5年(1785)25歳、「江戸生艶気樺焼」が大ヒット、この年、洒落本
初作「令子洞房」を発表する。↑江戸花京橋名取京伝像 栄里画壮年の京伝。紋は幼年の頃、父からもらった巴山人の印である。寛政の改革(天明8年〜)により、黄表紙、洒落本などの出版物は、風俗を乱すものとして取り締まりの対象となった。しかし寛政の改革に取材した黄表紙は数多く出版され、空前の売れ行きとなった。取り締まりが強化される中、武家作家の恋川春町、朋誠堂喜三二は姿を消し、寛政元年(1789)「黒白水鏡」は前政権の田沼意知が旗本佐野政言に斬られたことを克明にうがち、画工京伝も科料に処せられる。寛政2年(1790)30歳、、吉原扇屋で年期を終えた遊女菊園(27歳)を妻に迎える。出版物取締令が強化された年でもあり、それに配慮し、流行の心学を取り入れた勧善懲悪物「心学早染艸」を出す。また、後、読本作家として大成する曲亭馬琴の入門を許す。
寛政3年(1791)31歳、戯作に慎重になっていた京伝に、書肆蔦屋重三郎が洒落本の作を依頼、「娼妓絹篩」、「錦之裏」、「仕懸文庫」を出版、これらは教訓読本と銘打った袋に入れ、内容も遊女の誠実さや苦労を全面に押し出すという工夫を凝らしたにも関わらず、京伝は手鎖50日の刑、作品は絶版、蔦屋重三郎も処分される。 また、このとき、京伝は蔦屋より金1両銀5匁を受け取り、職業作家の稿料のはじめと言われている。京伝は転向を迫られ、馬琴に代作させた作品にも、天明期に発表されたいわゆる洒落本らしさ、黄表紙らしさは失われる。
寛政5年(1793)33歳、妻お菊(菊園)を子宮筋腫で失う。秋に銀座に煙草入れの店を開店した直後の時だった。店では、京伝が作った絵と文字の引き札(広告チラシ)に煙草入れを包んで売り、その摺紙見たさに商品が売れ、扱う商品も多くなった。また京伝デザインのオリジナル商品も売り出し、「京伝張り煙管」「京伝好み」など流行する。後に剃髪する父伝左衛門が店を切り盛りするようになる。「草双子の作は、世を渡る家業ありて、かたはらに、なぐさみにすべきものなり。」と京伝は残しているが、筆禍以降、理屈っぽい教訓に堕ちた作に甘んじていた京伝があ
寛政11年 (1799)39歳、父伝左衛門が死去、翌年吉原玉屋の遊女玉の井(百合)(23歳)を身請けして後妻とする。後、百合の妹と弟を養子にするが、二人とも早世する。「子なき事第一の後悔にて御座候」と馬琴に書き送る。文化元年頃、母も死去する。
←京伝の印譜と筆跡。
文化年間(1804〜)にはいると、敵討ちものの全盛となり、黄表紙は長編化し、合巻という形態に移行する。このころから京伝は近世初期からの人物・風俗・絵画・演劇などの考証的研究に打ち込むようになる。その成果「近世奇跡考」を文化元年に刊行する。京伝は読本に新領域を求め、読本作者としての地位を築きつつあった馬琴と拮抗する。文化3年(1806)46歳、考証趣味がちりばめられた「昔話稲妻表紙」(画工歌川豊国)を発表する。
文化13年(1816)56歳、弟山東京山の書斎開きに招かれて、その帰り、胸痛の発作を起こし死去する。文化11年、12年に上編が出版された考証随筆「骨董集」の続編を執筆するために、無理を押しての研究を続けていたところであった。馬琴は「骨董集」について、「享和中よりこの著に苦心すること十余年、ここに至って先ず、その上編あらはれたり」「京伝は骨董集と討死をしたりといふ者ありし」と書き残している。晩年は国学者として立たなかったことを後悔していたとも伝えられる。