[PR]何かを探す前に無料占い:当たる!無料占い『スピリチュアルの館』
黄表紙作品鑑賞 其の壱
ここには、京伝の黄表紙を中心に、作品を紹介しています。
米饅頭始(よねまんぢうのはじまり)黄表紙
安永9年(1780)北尾政演(山東京伝)画作。江戸鶴屋喜右衛門刊。
幸吉とお米は親の反対にあい、駆け落ちするが、金に困り、お米は吉原の遊女になり、幸吉は傘を張る。二人の気持ちは変わらず、幸吉は待乳山の聖天へ日参して、お米の事を祈る。父幸兵衛は二人を許し、お米は身請けされ、待乳山に饅頭屋を開き、名物になる。
純粋な愛情と信仰の結果、ハッピーエンドを迎えるという筋は、遊女に愛情をもって描きつづけた京伝の処女作にふさわしいと思われる。
三筋緯客気植田(みすじだちきやくきのうへだ)黄表紙
天明7年(1787)山東京伝作・北尾政演(京伝)画。江戸通油町蔦屋重三郎刊。
3人の男がそれぞれ傾城買いの見識を立て、ひねった遊びをしようとする。5歳の息子を大尽に仕立てる梅枝、遊女の葬式を出してやることが客として評判されることだと八重次郎、松太郎はなじんだ遊女千代の介を、うちに連れていって女房にしてもおもしろからず、いつまでも女郎と客でこそおもしろけれと、通いつづける。松太郎88歳、千代の介は75歳、息子にすすめられてようやく婚礼となる。
それぞれのおかしな様子は、「江戸生艶気樺焼」の艶二郎を彷彿とさせる。また、同年刊行の洒落本「総籬」と密接な関係をもっている。黄表紙が洒落本に最も接近し、惜しげもなくちりばめられたうがちは、京伝の天明黄表紙の特色をよくあらわしている。
玉磨青砥銭(たまみがくあをとがぜに)黄表紙
寛政2年(1790)山東京伝作・喜多川歌麿画。江戸通油町蔦屋重三郎刊。
寛政の改革に取材した作品で、その倹約令などによって、遊女には機を織らせ、狐を遊女にし、芝居役者は百姓になり、相撲取りは大名の用心棒に、無駄なことがなくなったという架空の世の中を描く。現代に生きる私たちから見ると、差別的表現も多い。
改革を皮肉っているものの、「吾唯知足」と、それぞれの分を知れと、体制に順応する姿勢も見せている。
総籬(そうまがき)洒落本
天明7年(1787)山東京伝作・山東けいこう画。江戸通油町蔦屋重三郎刊。
「江戸生艶気樺焼」に登場した艶二郎、喜之介、志庵が、吉原に遊ぶ様を描く。「あんまり艶二郎でおざんすねへ」(『三筋緯客気植田』梅山の言葉)などと、うぬぼれが強い半可通のことを艶二郎と呼んだほどで、滑稽と洒落、細かいうがち、江戸語、風俗など、洒落本として第一級のものとされている。喜之介の居るびょうぶのうちに入った遊女はいったい誰?。惚れた遊女に心変わりするなと、「こんなのろい句をだすようになっちゃ、たまらねえ」という客に、指の2本3本をいとわないと言う遊女のカップルあり、大事な色男の紋だから、足げにするなという遊女と怒る客のところもおもしろい。
昔話稲妻表紙(むかしがたりいなづまびゃうし)読本
文化3年(1806)山東京伝作・歌川豊国画。江戸西村宗七・伊賀屋勘右衛門刊。
読本の主流をなした敵討物を京伝も試み、そのうちの代表作。歌舞伎や浄瑠璃の趣向を取り入れ、寛政の処分後、彼のライフワークとなった人物・風俗・絵画・演劇などの考証的研究の成果も見ることができる。芝居に脚色され、大阪で演じられたが、小説が脚色されたはじめだったと言われる。
「骸骨の上を粧うて花見かな」だって→
金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいぐわのゆめ)黄表紙
安永4年(1775)恋川春町画作。
鱗形屋孫兵衛版。
金兵衛は、江戸で一旗あげようと田舎から出てきたが、おなかが空いて、目黒不動産名物の粟餅を食べようとする。粟餅屋の座敷でうとうとするうち、立派なかごが迎えに来て、金持ちの若旦那に迎えられ、吉原や深川で遊ぶ。山吹色のお金を使って、金々先生と呼ばれてもてはやされる。とうとう身代が傾き、家を追い出され、途方に暮れ、杵の音に驚いて起きあがるとすべて夢で、まだ粟餅もできていなかった。
謡曲「邯鄲」の廬生の夢に題材を求め、草双子が洒落本的要素を取り入れ、当時最新の風俗などを写し、黄表紙の祖となった作品。
御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)黄表紙
天明2年(1782)北尾政演(山東京伝)画作。通油町鶴屋喜右衛門版。
上方より江戸へ下ってきた八文字屋の読本と、行成表紙の下り絵本が、江戸で出版されている青本やそのほかの戯作、江戸の印刷物(地本)にけちをつけようとする。赤本、黒本、洒落本、一枚絵、柱隠し(柱に貼る細長い摺りもの)、浮世絵、唐紙表紙、錦絵、唐表紙、吉原細見、長唄本、義太夫本、大津絵、塵劫記(算術書)、年代記、百人一首、占い本、いろは短歌、紅絵、早引(辞書)など、すべて擬人化して描かれている。
柱隠しと一枚絵の恋愛模様を追いながら、地本たちが繰り広げる騒動は、活気に満ち、上方に変わって江戸で出版が盛んになったことを誇らしく表現している。また、本づくし(ものはづくし)の趣向、それぞれの本の特色に応じた役割を与え、話の筋に乗せたり、こじつけなど細かい技巧も冴え、几帳面であったという作者の性格をうかがうこともできる。
この几帳面さ、芸の細かさは、以降の京伝の作品の特色とも言え、寛政の改革時、出版物取締令に配慮せざるを得なくなったときにも発揮された。
黄表紙評判記「岡目八目」は、この年の総巻軸大上上吉にこの作品を据え、京伝の出世作といえる。
親敵討腹鞁(おやのかたきうてやはらつづみ)黄表紙
安永6年(1777)朋誠堂喜三二作・恋川春町画。大伝馬町鱗形屋孫兵衛版。
友人春町に刺激されたのであろうか、この年、一挙に六部出版されている。
草双子「かちかち山」で、爺婆を欺いた狸が、うさぎに復讐された。この狸の子が助っ人に猟人を頼み、またまた敵討ちにでる。それを聞きつけたうさぎは江戸に逃れるが、江戸へ出てきた狸と猟人にあって、料理屋にかくまってもらう。狸と猟人はそこの女房の焼く、うなぎの蒲焼きの匂いに気をとられる。そこを通りかかったのは爺婆の息子で足軽の軽右衛門、うさぎの肝を探すように命令されているが、大恩のあるうさぎをかばって、狸と争う。それを聞いたうさぎは切腹し、その肝を軽右衛門にとらせる。軽右衛門は武士に取りたてられ、狸は猟人に撃たせた狐に仕返しをされる。
喜三二のデビューを飾るにふさわしい、引き締まった、奥行きのある一編。
時代世話二挺鼓(じだいせわにちょうつづみ)黄表紙
天明8年(1788)山東京伝作・歌麿呂門人行磨呂画。江戸通油町蔦屋重三郎刊。
田沼意次失脚、松平定信の改革政治にいち早く取材した作品で、朋誠堂喜三二「文武二道万石通」と同年の出版だが、「文武」が細かくうがったのに比べ、芝居がかった本作は、巧みな婉曲化に成功している。
藤原秀郷(定信に擬す)は平将門と(意次に擬す)交えんと、東国に出向いた。料理、書道、諸芸などで勝負する。実は、将門には六人の影武者がいるのだが、秀郷は七人分に対して八人分の腕前を見せる。焦った将門は、影武者の存在を見せつけるが、秀郷は物が八つに見える八角眼鏡で自分の姿を見せ、将門は驚く。秀郷はとうとう将門の首をはねる。
将門の七は田沼の七つ星の紋を指している。
少し物足りない感もあるが、京伝はこの程度を安全と踏んだのだろう。
文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくとをし)黄表紙
天明8年(1788)朋誠堂喜三二作・喜多川行麿画。江戸通油町蔦屋重三郎刊。
田沼意次失脚、松平定信が老中となり、文武奨励、倹約励行の寛政の改革が始まったことは、黄表紙の格好の材料となった。これに取材した黄表紙はいくつも出版されたが、その先鞭を付けた作品である。
重忠(定信に模す)は、武士を富士の人穴に入れて、どの抜け穴を通るか、温泉に入れて、その様子から、万石通(ふるい)にかける。文人、武勇の人、どっちにも入れないぬらくらの武士は、「文武の道をまなぶべし」と説教を垂れてもらう。
「古今未曾有の大流行・・・前代未聞」と馬琴が伝える成功作で、佐野善左衛門の刃傷沙汰、文武奨励の告示、田沼の腐敗した政治、定信の粛正など、諸事実を細心の配慮によって描き出した作品である。特に幕政を風刺するものではなく、むしろ政治に取材した黄表紙として、注目するべきである。しかし、この作品により、喜三二は、幕府のとがめを懸念する主家より止筆を命ぜられたといわれ、文筆を廃した。
↓黄表紙作品鑑賞 其の弐へ ↓
トップページに戻る