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黄表紙の周辺
草双紙
本格的な草子(書物、物の本)に対して、装丁が簡単で一般的な内容のものを指す。御伽草子、浮世草子など、広い範囲にわたるものであったが、一般的には、江戸時代以降、江戸の地で出版された絵入り草紙である赤本、黒本、青本、黄表紙、合巻などを草双紙、草草子と呼ぶ。
赤本
草双紙の一種で、表紙が丹色表紙であったことからそう呼ばれる。元禄(1688〜)頃から延享(1744〜)頃に出版された、絵を主とする仮名書き本のこと。表紙が丹色表紙であるところから名付けられた。はじめは子供向きのおとぎ話などであったが、やがて内容は広範囲になり、浄瑠璃のダイジェスト、流行唄集など大人を対象とするものも出るようになった。寛永(1748〜)染料の値上がりにより、姿を消す。
黒本、青本
赤本のあとを継ぐ草双紙の一種で、享保以降に出版された。当時の芝居絵本の表紙は黒で、赤本の内容が大人向きのものになるにつれ、黒い表紙が用いられるようになった。青本は、草の汁を絞り染めた明るい緑色の表紙をつけていたが、すぐに黄色に変色し、実際は黄色の表紙であった。その年の新版(新板)は青本の体裁で出板しその年を過ぎてからの再版(古板)にはより安価な黒色表紙をつけた。絵師の署名がされたが、作者が明記されることは稀だった。
狂歌
諷刺や笑いに主眼をおいた短歌形式の作品。万葉集や古今集にその源を見ることが出来る。和歌に対しての「狂歌」が意識されたのは鎌倉時代であるが、江戸時代に入り、それは庶民的になり、上方の浪花風狂歌となる。後、江戸でも盛んになり、特に天明期(1781〜1789)のものは、天明狂歌と呼ばれ、沈滞した幕政と時代閉塞に反発したパロディや諷刺、言葉のおもしろさを特色とする。その自由清新、軽妙洒脱な天明調は寛政の改革後、影をひそめ衰退した。
合巻
寛政の改革後、黄表紙の題材として敵討物が流行する。筋が複雑になり、黄表紙の5丁1冊2〜3冊組では足らなくなり、何冊分かを合冊することがおこった。これが合巻で、文化4年(1807)以降のものを黄表紙と区別する。
読本
勧善懲悪主義を主軸にした小説で、説話や筋に趣向を凝らしたものである。儒教、仏教思想に基づく教訓ともなっているため、寛政以降、全盛を迎えた。
洒落本
遊客遊女の様子を会話本位の写実的な文体で精細に描写する遊里文学。遊興や通人の姿を細かくうがち、優れた心理描写をも生んだ。享保(1716〜)頃からあらわれ、天明(1781〜)年間に全盛を迎える。黄表紙などに大きな影響を与えたが、寛政の改革により、京伝は筆禍を受け、洒落本は人情本や滑稽本に接近する。京伝が筆禍を受けた「錦之裏」「娼妓絹篩」「仕懸文庫」によって稿料を版元の蔦屋から受け取ったことは、ひとつの慣例となり出版界と職業作家の関係を築くもととなったと言われる。
通
江戸市民の美的生活理念を表す言葉。社会全体や遊里の諸事情に通じ、人情の機微を察知し、さばけた態度で人に対し、また身を処していく知恵を得ていること。特に遊里では、その精神的要素に重点をおいた。洒落本は「通とは何か」を論じた媒体だといえるかもしれない。「気の通った人」(粋人)「顔の通った人」(顔役)の二つの意味があった。その境地に至り得ず形だけ真似るのを「半可通」全くの「野暮」などの言葉もある。
うがち
「穴をうがつ」知られざる特殊な事実や欠陥(穴)を指摘してみせること。気づかずに放置されている穴を素早くうがつとき、そのうがちは賞賛される。新事実を暴露してみせる方法、既知の事柄をあらためて新鮮な角度からうなずかせる方法がある。滑稽の醸出を目的とし、諷刺とは区別される。
パロディ
一般によく知られている作品の文体や韻律をまねて、まるで違う内容をその形に盛り込み、そこに滑稽味や風刺の効果を生みだしたもの。元の作品の内容との関係を断ち切っても、それ自体で独立した意味を成立させている。
戯作
黄表紙、洒落本、読本、草双紙、滑稽本、人情本などを指す。正当な文学(漢詩、漢文、和歌、雅文など)に対する言葉である。
江戸時代、知識人の余技として作られ始めた文芸で、本来雅の文芸に従事すべき人が俗文学に手を染めたときのいいわけとして、「戯作」なる名称が生まれた。そのうち、表現のおもしろさに徹する意識が生じ、ひたすら笑いのために表現技法がこらされた。戯作者として俗に居直った作者たちは、自ら楽しみ、読者に慰みを提供するという姿勢をとった。
明治以降も、戯作は途絶えたが、文学に大きく影響を与え続け、坪内逍遙、永井荷風、自らを戯作者と位置づけた太宰治(彼は戯作の中に自己消化したのだろう)、井上ひさし、サド(奇しくも黄表紙の時代、彼はとらわれのみであった。京伝の「江戸生艶気樺焼」が出た1785年は、バスチーユで「ソドム120日」を書き、獄内の壁の隙間にそれを隠したという。)を翻訳した澁澤龍彦はその文中に江戸語やその雰囲気をちりばめた。
浮世絵
浮世、つまり当世の風俗を題材として描いた絵。江戸時代の日本画の一流派で、遊女、役者、美人、風景などを描き、江戸で人気を博した。肉筆画と版画があり、版画ははじめ、墨刷りに手彩色が施されたが、多色刷りの錦絵が始まってから、さらに発展し、フランスの印象派などに影響を与えた。
題簽
草双子の表紙に糊で張られた、書名、内容を想像させる絵と版元の商標をあらわしたもの。絵題簽ともいわれる。黒本、青本の時代には、干支や十二支を刷り込むようになった。黄表紙の時代にはいると、題簽も飛躍的に進歩し、意匠を競い合った。
袋入り本
黄表紙や洒落本のうち、袋に入れられて売り出されたものがあった。特装本といえる。
田沼政権
年貢徴税の限界、都市問題、農村構造の変化など、幕府が直面した危機を、幕府の政治権力を背景に商業高利貸し資本を利用する積極的な経済政策で乗り切ろうとした。政権下の賄賂、士風退廃などが強調されているが、商業を重視した現実的な政治家と評価される面もある。その積極的な政治が江戸に開放的、享楽的な雰囲気を生み、江戸文化の発達、爛熟に貢献したとも言えるだろう。
寛政の改革
田沼意次の失脚後、松平定信が将軍補佐役となり、田沼政治の腐敗浄化、緊縮財政、農村の復興などを目的として幕藩体制を再建、強化しようとした。文武奨励、商業資本の抑圧、風俗取り締まりなど、保守的、反動的色彩の濃い、極端な緊縮財政や思想・言論の統制では、一時的な幕政の建て直しにしかならなかった。
教訓性
寛政の改革時、松平定信は幕政の強化を図るため、儒学諸派を異学とし、人間の感情を抑制する道徳観と、君臣関係をただし、身分差別の重視を基本とする朱子学を正学として保護をはかった。黄表紙はその存続のために、朱子学の教訓を織り込んだ「説教臭い」内容に変化し、洒脱な機知や軽快な風刺は陰をひそめた。読者の興味をつなぐため、敵討ち、勧善懲悪を主題とするようになり、黄表紙は自己解体を始める。
地本
上方の絵本に対し、江戸地付けの紙(浅草紙)を使って製本した草双子類、絵本、歌本、錦絵、双六、かるたなどをいう。地本草紙問屋が扱った。地本に対して、物の本(伝統的古典文学、漢学書、医学書など)は、書物問屋仲間が扱った。上方出版で江戸に下って発売されたものは下り絵本と呼ばれた。当時の地本については、京伝作「御存商売物」に詳しい。
心学
神・儒・仏の諸説をわかりやすく組み合わせ、日常に心がけるべき町人道徳として、倹約、堪忍、正直を説いた。卑しいとされていた商業営利行為を是認し、士農工商とも道は一つであり、それぞれが身分に応じて活動するべきだとした。
蔦屋重三郎
寛永3年(1750)吉原に生まれた蔦屋重三郎は、吉原大門口で鱗形屋の「吉原細見」(ガイドブック)の卸、改め(遊女の移動など、情報収集)をやっていたが、鱗形屋廃業のあと、細見の出版を独占し、多数の作者や浮世絵師を抱えた。蔦屋はさながら絵師や狂歌師、戯作者らのサロンであったとも言われる。
日本橋に移ったころには、狂歌界の人脈、絵師らのネットワークをしっかりつかまえていて、作品を摺って売るだけの草紙問屋(錦絵、黄表紙などの消耗性の高いものを扱う)ではなく、作者や絵師に作品の提案したり、企画したものを作らせたり、京伝に稿料を払ったり(稿料のはじめと言われる)、編集など、今日のいわゆる出版社のような仕事をした。
また、蔦重のもとで育ったのは歌麿や写楽だけではなく、京伝の師北尾重政の関係で、京伝も腕を磨き、兄弟分の北尾政美は後、津山藩に抱えられて鍬形惠(←くさかんむり付き)斎を名乗る。京伝に入門を乞うた馬琴も、蔦屋で番頭をしながらチャンスをねらっていた。十返舎一九も、習作時代は浮世絵の紙のどうさ引き(にじみ防止の液を塗ること)をやっていた。
寛政の改革直後、その作品が社会に取材したと、朋誠堂喜三二、恋川春町が姿を消し、また、京伝の処罰、蔦重も身上半減のとがめを受け、蔦屋は少しづつ傾いてくる。書物問屋(伝統的古典文学、漢学書などを扱う)の株を取得し、書物の出版をしたり、黄表紙、洒落本がだめなら、写楽の役者絵、歌麿の美人画をを売りだそうとしたが、写楽は一年(寛政6年・1794)で贅沢御法度のとがめを蔦重に残して消え、歌麿は蔦屋を去った。
寛政九年(1797)没。その後、二代目は苦しい経営を継いでいるが、衰退の一途をたどった。
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